先日、ある管理職の方の20代の部下が、客先から「君の仕事は物足りない」といったことを言われたそうです。その方は、このご時世にこの物足りなさを教えるのは、とても難しいと嘆いていました。
今の若い人に対して、と総じてしまってはいけませんが、どこかドライさ、無関心さを時折、感じてしまうのは、世代間の価値観の違いが大きいとは思います。しかし、その背景には「失敗への過度の恐れ」があるような気もします。コスパやタイパを求める心理も、ここが端緒となっているとすれば納得感があります。そして、これはバブル後に社会に出た世代(私も第一世代です)に、濃淡はあれど共通しているように思います。
過度の恐れが生じる原因は、根強い「自己責任論」の下に失敗を許容しない社会、裏を返せばそうした余裕のない社会であること。もっと言えば、バブル後の世代が失敗を避け、失敗を避けることをその次の世代が見てきたからではないのか。部下の手柄を取り上げ、失敗を部下に押し付けるのであれば、部下が育つことはなく、組織は朽ちていきます。
そうした大人、そうならざるを得なかった大人を責めるつもりはありません。ただ、そうした環境に育てば、無意識のうちに「やったら損」、「ここまででいい」、「叱られないように」という判断基準になるのも止むをえません。失敗しないという発想は、及第点を目指すということです。及第点は、悪くないが、当然、良くもない。
そして、最大の問題は、本人が及第点と思っている地点は、他者から見れば、恐らく及第点の「随分手前」にあるということ。本人が及第点を十分に超えたと思うくらいでないと、及第点には達しないのです。試験で80点を取ろうとして勉強しても、恐らく80点を取るのは難しい。100点を目指して初めて、80点に届く可能性が出てくる。
客先から指摘を受けたご本人は、与えられた職責を十分に果たしていると考えているはずです。手を抜こうとは思っていない。一生懸命にやっている。そこに偽りはない。しかし、上司や客先からは「物足りない」と思われるのには、恐らくこうした構造があるのだと思います。
結局のところ、「いい仕事だ」と褒められる、すなわち「感動を与える」には、及第点(相手の想像)を大きく超える必要があります。例えば、我々がスクリーン越しに見ている方々には、何かしらこうした要素があるはずです。あるいは、営業成績のよい人、プロジェクトに頻繁に声がかかる人。
冒頭の管理職の方は、仕事で気になったことは自宅に帰っても考え続けるそうです。たしかに話しているとアイデアが次々に出てくる。全ての人にできるとは思いませんし、まして、それを強要することはできません。性格や適性もあります。しかし、感動とは、こうしたところから湧き出づるのもまた事実です。
そして何より、感動のない仕事は「代替可能」です。本人としては頑張ったのに評価されず、リピートもなければ、仕事はつまらなくなり、やる気も失せ、ますます及第点から後退してしまう。
全ての仕事は、誰かの課題を解決します。単に時間あたりの賃金を得る手段ではなく、誰かを助け、社会に貢献するもので、その結果として得られるものが報酬です。
では、及第点の境界を超えるにはどうしたらよいのか。アイロニックですが、叱られるくらいにやる。叱られることをやろうではありません。裏を返せば、叱られないような仕事は褒めてももらえません。心が動いたら、自身の正義が発動したら、勝手に動く。時に「余計なことをするな」と叱られる。それくらいやれば、必ず誰かが褒めてくれます。誰かが手伝ってくれます。それが自分の仕事の流儀を作ります。
